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『鮎川義介- 日産コンツェルンを作った男』堀雅昭
生涯を通じて、大衆を視座にすえて行動したことに光をあて、実業家・鮎川の実像に迫った労作という触れ込みです。
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東京の姉の勤務先が晩年の鮎川義介と関わりがあり、西日本新聞に大きく紹介文(広告?)が載ったご縁で読んでみました。
帯に・・・井上馨(長州藩閥)の富国主義を受け継いで、戦前は満洲産業界を主導し、戦後は岸信介とともに高度経済成長を支えて中小企業の育成に努めた鮎川義介、その波乱の生涯・・・とある。
丹念に資料にあたり、現地に足を延ばして、実業家・鮎川の実像にせまった労作。山にも誘われていた中で断り一気読みしました。そうしないと途中で積読になりそうな種類の本でしたから・・・

鮎川義介は明治維新の革新後の明治13年11月6日、山口県の没落士族の子に生まれました。そう吉田松陰・久坂玄瑞で名高い旧萩藩です。
私の血の中には萩藩有数士班の家柄に嫡男として生まれたプライドは勿論、土地柄としても幕府に対する反骨の伝統的血脈が波打っていたに違いない。
大叔父に明治の元勲・・・井上馨がいて、薫陶・庇護を受けていたのは幸いなことでした。大叔父の鶴の一声で、義介の妹が、炭鉱成金の貝島家に嫁ぎ、義介は教頭宅に下宿するようになります。「他人の飯を食わんと人間になれん。」その後転々と下宿生活は続く。

井上の言いつけ通り、義介は山口高校から東京帝国大学の機械科に進みます。この時は井上の内山田邸に居候。井上流の富国主義が日産コンツェルンを築く義介のアイディアへと引き継がれるのです。

スタートは31歳の時北九州戸畑に立ち上げた戸畑鋳物・・・のちの日立金属や日産自動車のルーツです。義介が世に登場するのは昭和2年の金融恐慌時代、久原鉱業の社長になった頃。この株を大衆に公開したことが日産コンチェルン(日本産業)のオープン・コンチェルン誕生につながるのです。下関の共同漁業を戸畑に移し日本水産を誕生させたのもこの頃。

昭和6年9月満州事変勃発。株価急騰により得た1000万円を投じて、鮎川は日産自動車で大衆車二人乗りダットサンロードスター14型の製造開始。そして日産コンチェルンは満州重工業開発(満業)と名を変え建国間もない満州へと飛び出していく。

満州では、満鉄から譲渡を受けた昭和製鋼所や満州炭鉱などの鉱工業会社を置き、これらの会社を統制。「キブツ」と呼ばれるイスラエルの共同体社会をモデルとした経営、労働力としてのユダヤ人とユダヤ資本(アメリカ資本)の六族協和の夢「河豚計画」、朝鮮海峡海底トンネル計画(これは戦争で中断)などの構想を練ったが、次第に関東軍や満州国政府の経営干渉を受けるようになり、結局は満業を手放して引き上げるのです。

帰国後も日米戦争回避工作と並行して、伊豆大島にユートピア構想(亜熱帯植物園・クジラを飼える巨大水族館)を立てるも不首尾に終わり終戦。巣鴨プリズンに収監されます。

義介は井上馨の富国主義をより民主化した工業ユートピアを実現した思想家・哲学者だったと著者は述べています。

次から次へと休む間もなく展開されていく事業欲。義介による「事業は創作であり、自分は一個の創作家である」という言葉に至って、やっと腑に落ちました。そして事業の方向性が見え始めると、信頼できる知人に任せて表舞台から去る。そして大事なことは、生涯を通じて大衆を視座にすえて行動したことです。

巣鴨プリズンの卒論が
1)中小企業の振興
2)道路網の整備
3)水力発電による電力開発とダム建設
だったそうですよ。数億の私財を投げ打って、中小企業の振興に力を尽くし、86歳で没。

身辺と関連のある事柄もわかり興味深い面もありましたが、眼圧が20に上がったので、しばらく活字はノーサンキューですね。完読できてよかったです。042.gif
(本文より抜粋の箇所あり)

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by otomi_2 | 2016-09-14 22:31 | ◆本 Topに戻る
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